第一子の妊娠記録〜妊娠中期までの記録〜

2009年の11月に結婚した私たち夫婦。


そろそろ赤ちゃんが欲しいねって2人して思っていて、夫婦ともに待ちに待った妊娠。2011年8月15日が予定日。


さいたま市のクリニックへ里帰りするまで通うことにしました。

某サイトの口コミ、最新機器が揃っており待ち時間も少なくすみそうな所を選びました。

そのクリニックはセミオープンシステムを導入し、分娩は提携の大病院か、里帰り出産などの他院で分娩する人を診てくれるところで、分娩の取り扱いはないところに通うことにしました。

初期から出血があり、心配になり健診外で診てもらうこともしばしば…

2011年3月11日の東日本大震災を当時派遣で働いていた東京神田の8階のオフィスで体感。

強い長い揺れで、帳票が入った段ボールがぶつからないように、椅子に座りながら抑え、左手でお腹をさすった記憶が今も鮮明に蘇ります。

そのとき、地震速報をネットで見つつ、ふと周りを見渡すと男性社員はみんなデスクの下に潜って避難してて、椅子に座ってるのは私と部長くらい。

周りの社員さんから、「妊婦さんなんだから、隠れないと〜〜!」なんて怒られたっけ。

地上に下りて、派遣仲間の子が頻発する余震に怯え泣いていたし、道にはあふれんばかりの人。

タクシーチケット人事からもらったけど、鉄道は軒並み運休。みんなタクシー狙いで、つかまるわけない。

さて…どうやってさいたま市まで帰ろう…

実家も心配だし。

なにより帰る術がなし。

とりあえず、埼玉方面の社員さんが歩いて帰るってことになり、私も歩くことに。

だってタクシー見つかんないし、この渋滞じゃね…

迂回に迂回を重ね、3時間歩いて白山のココスで夕飯を食べた。

旦那と定期的にHotmailでやりとりし、迎えにきてくれることに。

この時、携帯のメールは使い物になりませんでしたから、携帯の電池消耗を防ぐために、指定された時間にHotmailにアクセスするようにと旦那に指定されました。


そういう時、頼りになりましたね、彼は。




妊婦の私はというと…

トイレに行った時、少し出血あったし、ダメかな…なんて思ったりもしました。

結局大渋滞の中でも、上尾から白山までなんとか迎えにきてくれた旦那と落ち合うことができ、付き添ってくれた女性社員の方を乗せてさいたま市まで帰ることに。

今考えると、よくぞ旦那が10時間以上運転し通しで来てくれたなって思います。

しかもガソリンもよくもったなと…

翌日クリニックで診てもらい、実家に帰省できないかと、打診されてしまった。

思い返すと、初期の段階で、里帰り先の病院で事前健診を一回した時に、仕事を辞められないかって先生に言われたのが思い出されます。

通勤電車の過酷さ、職場への遠さ、それらを鑑みての先生の助言でした。


原発の爆発、計画停電…などなどありましたが、その後はユルユルと7月まで派遣で働いていました。




34週の段階で、実家近くの総合病院に受診することになっていて、久しぶりに行ったところ、なんとなんと、子宮頸管が3センチということを指摘されました…


今まで張り止めは飲んでいたけど、知らず知らずのうちに子宮頸管が縮んでいたとは。


目に見えないところで進んでいた症状。

本当に怖かったです。



それでも第一子であるということ、実家へ里帰りなら、安静に出来るよね?という先生の計らいで、入院は免れたものの、安静生活が始まりました。